はじめに

星 元紀(東京工業大学名誉教授/JST科学コミュニケーションセンター フェロー)

原核生物の誕生に始まり、38億年にわたる生物の進化を振り返ってみると、大きな飛躍が何度かみられる。なかでも、原核生物の共生による真核生物の創出、多細胞生物(多細胞性真核生物)の形成、知的生物すなわちヒトの誕生は特に大きな飛躍と言えよう。ヒトは発達した脳を持つことによって、遺伝情報とは別に色々な情報を獲得・集積して体外に保存し、時間と空間の制約を超えて伝達・共有する唯一の生物である。他の個体、世代と情報を共有には教育が必要となるであろうが、ヒトは積極的な教育を行う特殊な生物でもある。このような意味で、ヒトは原核生物、単細胞性真核生物、多細胞性真核生物に続く第4の生物と呼ぶことができよう。

第4の生物ヒトにとって、コミュニケーションは本質的な行為であり、科学や技術の発達もここに根差している。とりわけ、科学技術*)の影響が正負両面で大きくなった現代において、科学技術をめぐるコミュニケーションの必要性は劇的に高まり、よりよいコミュニケーションを行い、科学技術の成果を享受するための技能、いわゆる科学技術リテラシーの重要性が増している。

科学技術リテラシーとは、確立した知識のリストであるとする考えは広くみられるが、われわれは科学技術リテラシーをもっと大きな枠組みでとらえている。すなわち、科学技術の性質、制度、限界を理解し、リスクとベネフィットを考え、他者との対話、協働を通じて、よりよい社会をつくり、よりよく生きるための知識、技能、態度の総体が科学技術リテラシーであると考えている。したがって、科学技術リテラシーを個人に帰属する財産としてのみ考えるのではなく、社会全体で維持し、将来世代と共有する営みとしてとらえなければならない。

日本人が身につけるべき科学技術リテラシーを検討した「日本人が身に付けるべき科学技術の基礎的素養に関する調査研究」(2006・2007(平成18・19)年度科学技術振興調整費「重要政策課題への機動的対応の推進」による、日本学術会議と国立教育政策研究所とが共同で行った調査研究プロジェクト)、略称「21世紀の科学技術リテラシー像~豊かに生きるための智~プロジェクト」(以下「科学技術の智プロジェクト」)もこのような観点から構想された。

しかし、この総合報告書で謳った「21世紀を心豊かに生きるにあたり、『持続可能な民主的社会』を構築するために万人が共有してほしい科学技術の素養(これを「科学技術の智プロジェクト」では「科学技術の智」と呼んでいる)の向上を2030年までに図る」ために必要な施策は、未だ具体化されていない。「科学技術の智」(または、科学技術リテラシー)とは、科学・数学・技術に関係した知識・技能・物の見方であり、報告当時に生まれた子どもが成人として社会を背負って立つまでに、「科学技術の智」が、社会全体に行き渡っていることを期待している。

このような期待を現実のものとするために、具体的な施策の立案に向けて問題を整理し、どのような基盤にたって施策を考えるべきかを明確にすべく、科学技術振興機構(JST)科学コミュニケーションセンターが行う科学コミュニケーションに関する調査・研究として、2012(平成24)年度から課題研究「科学リテラシーの向上に関する実践的研究」を開始し、これを担当するために星ユニット(2014(平成26)年度より星・長崎ユニット)を組織した。研究の開始にあたって、異文化コミュニケーション、科学教育、教育行政、生活リスクなど、異なる研究背景を持った少数の共同研究者を選定した。このメンバー間の相互理解と基本的知識の共有をめざしてブレインストーミングを行うとともに、内外の専門家を招きご講演いただいた(資料2参照)。

科学技術リテラシーおよび科学教育をめぐる基本的な議論を通じて、ユニットの活動は次の3点を基本方針とすることとした。

ⅰ)学校教育に十分配慮はするが、その枠を超えて生涯学習として位置づける

ⅱ)既存組織の自立的な活動を促すとともに、協力を求める

(教員をはじめ、各方面からの積極的な提案を求める)

ⅲ)科学の暫定性、不確実性、答えのない問題などへの対処につき特に配慮する

この報告書は、本ユニットの2年半にわたる研究の成果を取りまとめ提出するものである。まず第1章では、本研究の背景となっている「科学技術の智プロジェクト」がどのような経緯で始まり、まとめられた報告書がどのように活用され、取り組みが進展したかを概観したうえで、評価を行う。次いで第2章では、科学技術リテラシー、または、科学リテラシーの基本的な考え方を、①コンピテンシーとの関係、②「日本」という文化土壌の特徴、③リスクリテラシーとの関係、④この70年ほどの教育の変遷との関わりという4つの視点からそれぞれ論じ、第3章では、科学リテラシーの主体について考察する。最後に、これらを受けて、今後、科学技術リテラシー向上のさらなる推進のために必要とされる方針・方策について論ずる。

科学技術との関係がいっそう深まりゆく社会において、東日本大震災、研究不正をめぐる科学コミュニティへの不信に応えるためにも、あらたな科学技術リテラシー像を構想し、それを絶えず見直し続けることが必要である。また、身につけるべき「基礎的知識」や「考える力」などの目標水準(ベンチマーク)、2030 年までにベンチマークを達成するための推進計画(ロードマップ)の作成をはじめ、当初計画しながら積み残したことも少なくない。これらについては、引き続き議論を深めて行きたいと願っており、その取り組みの1つとして、私たちは2014(平成26)年12月23日、広く一般の方々に向けて本調査・研究に関する成果報告会を開催した。ここでは各共同研究者よる本報告の概要説明に加えて、共同研究者と参加者が共に「科学技術の智」の定着・普及のための働きかけを提案するフューチャーセッションを行い(第3章2のⅰ参照)、これらに対する参加者からの感想を共同研究者にフィードバックした。引き続き、本報告が、多様な人々が科学技術リテラシーについて考えるきっかけとなれば幸いである。

なお、本書では「科学技術の智」との表現を用いず、「科学リテラシー」または「科学技術リテラシー」と表記している。この表記については各執筆者の意図等を反映し、統一を行わなかった。

*)       ここでの「科学技術」という総称には、狭い意味での科学、技術、数学、それと広い意味での人文科学・社会科学を含めている。なぜなら、言葉の定義を超える問題として、21世紀を「豊かに生きる」ためには、人類が築いてきたあらゆる叡智を統合する必要があると考えるからであり、その要となるのが最も広い意味での「科学技術」であるとの認識に立っているからである。