発刊に寄せて-科学的考え方の新たな展開

北原 和夫(東京理科大学 教授/JST 科学コミュニケーションセンター 科学コミュニケーション研究主監)

2005年から3年間150名程の科学者、教育者、技術者、行政者などが参加して「科学技術の智」プロジェクトを実施、21世紀という時代に照らして全ての国民が身につけるべき科学技術の素養を言語化していった。普遍的な智の在り方を求めるものであった。

そこで「21世紀を豊かに生きるために」という目標を掲げたが、「豊かさ」とは何かについて必ずしも明確になっていなかったように思われる。その後の展開は、科学技術についての理解を定着化させるために啓発活動、科学コミュニケーション活動に発展していった。さらに、日本学術会議においては、高等教育の質保証のために各専門分野の「芯」を言語化する活動へと発展した。これも普遍的な智の在り方を求めるものであった。

しかし「豊かさ」の定義、「智の価値」をどこにおくのか、というところが不明確であったところに、我々は3.11を経験することになった。津波によって万全と言われた防波堤は崩壊し、また原子力発電所は放射能物質を放出するという事態になった。一方、防災教育を日頃から行っていたところは、生徒・児童の命を守ることができたという例も報告されている。

そこで、リスクも含めた科学技術リテラシーの再構築、さらに何が豊かさなのかを再考する必要性に迫られた。このような状況の中で、「科学コミュニケーション」とは何かを問い、実践し、実装する機関としてJSTに「科学コミュニケーションセンター」が創設され、そこで「科学技術の智」の点検をして将来の科学リテラシー活動への基盤とすることとなった。

まず、3.11を経たときに、「科学的な考え方」の再考が必要である。直接科学技術に関わらないかも知れない社会の課題も、落ちついて適切な判断がなされる必要があり、そこにも通用する「科学的な考え方」にまで普遍化する必要がある。

科学的知見の暫定性:科学と民主主義

「科学的な考え方」というのは何なのかというと、科学は自然もしくは人間社会における現象を理解する営みであり、新たな知見が得られて、理解されたことは修正されてさらに深められていく。一方で、技術とは何かというと、役に立つ物もしくはシステムを設計して創出する過程である。その際には、与えられた条件のもとで、失うものと得られるものとを良く斟酌して開発の方向性を決めていくのである。科学が現象の理解、技術が設計と創出であり、異なる方向性をもつ営みではあるが、いずれも永久不変な「正解」を与えるものではなく、現時点における「暫定解」を与えるものであるということに留意する必要がある。 

 実は、「暫定解」と「正解」の対比を考えると、民主主義という近代の政治の在り方と深い関係があることが分かる。私たちは所属する集団の方向性を決めるときに、民主主義の方法によって議論を十分したあとは評決によって決定する。しかしその決定は、「暫定解」であることに留意すべきである。そこで大事なことは、反対意見を記録に留め、また反対者がいたことも記録に留めておくことである。そうすると、決定後実際に実行してみて不都合が見つかった場合に後戻りができる。むしろ全会一致の決定は危険であるとさえ言える。なぜなら不都合があっても、他の選択肢に向かって方針を修正することが困難になるからである。長い歴史を持つユダヤ教において、日常生活に関わる知恵をまとめた「タルムード」というものがあり、そこに興味深いことが書かれている。「死刑判決を下すとき、もし全会一致であったら刑を執行してはならない。反対者がいたら執行してもよい。」つまり人の命に関わる重要な決定をするとき、その決定の正当性について表裏両面をきちんと検討せよという教えである。全会一致にはときとして冷静な判断以外の要因が入り込む可能性があることを警告するものである。多数決の方法において、反対の少数者をその集団から排除しないことが必要条件である。視点の多様性を保持することが長い目でみて、その集団の健全な発展をもたらすのである。その意味で、民主主義の考え方は科学的な考え方と通じるところがある。

科学的知見の公共性

また、近代の科学の成立の歴史を見てみると、科学的知見というものは「公共財」であるということが見えてくる。イギリスでは1660年に王立協会という学会が創立され、以来雑誌を刊行してきている。それまでは研究の成果はその研究者個人もしくはその仲間だけに留まっていた。しかし成果をおおやけにすることによって、さらに研究が継承されて進展するのだという考え方が生まれて、学会が設立されたのである。成果を公共のものとすることの代償として、雑誌に論文を投稿して公表するという過程を通して第一発見者の栄誉を社会が認知するということになった。同時代の1623年にイギリスでは特許制度も始まった。これはだれでもアイデアを出して社会改良に参加できるようなシステムとして作られた制度である。おおやけにするかわりに発明者の権利を守るのである。これらの制度の背後には、科学と技術を個人のところに留めないで、公共財として公開することが社会の発展につながるという考え方がある。

公共財である以上、その発表の仕方などに一定の「作法」が必要となる。先行研究を引用すること、新たな知見をその証拠を挙げて論理的に記述することなどである。このような「公共財」という考え方で、研究が行われている限り、捏造といった倫理的な問題は生じるはずがないのであるが、残念なことに研究現場で、研究とは何か、技術開発とは何かという基本的なところが共有されないところで、問題が生じている。このような「公共財」の考え方は、研究の現場だけでなく、学校の教育現場でも伝えていかなければならないことである。実験の指導において、単に理論の確認に終わることなく、むしろ実験のデータから事実は何かを読み取り記録するということが大切である。

人間の本性としての科学の営み

現代の社会にとって、科学的な考え方が大切であるということを、民主主義社会の基盤と科学的知見の公共性という視点から考察した。しかしながら、私は科学という営みは社会的必要性から起こるのではなく、もっと人間の本源的なところからくるように思われるのである。そこで「豊かさ」、「幸福感」が何かという問いになる。

小学校までは理科好きの子どもが多いといわれている。好きであるということは1つの快感もしくは幸福感の現れである。快感とは何かというと、おそらく生存の確かさを感じたときに得られる感情ではないだろうか。逆に不快感は生存が脅かされるときの感情ではないだろうか。これらは長い進化の歴史の中で生き延びていくために獲得してきた感情ではないかと思う。その快感が知的に高められたのが、好奇心、探究心など科学の営みにつながる心情ではないだろうか。さらに、現実を見て次に起こることを予想し対応して生き延びてきた歴史のなかで、好奇心、探究心、そして目に見えないメカニズムを推論する「想像力」が育まれてきたのではないだろうか。そうだとすると、そのような好奇心、探究心、想像力を抑圧する要因があると、逆に不快感やストレスとなっていくのではないだろうか。小学校から中学、高校へと進むにつれて、学習内容が抽象化され、現実味を感じられなくなると理科離れが起こると言われているが、好奇心、探究心、想像力を人の本性と認めて、科学を伝えていくこと大切である。

文化と科学および応答可能性

科学に対する感性が進化の歴史において育まれた快感を基盤とするという考えを述べたが、もっと高次の文化との関わりも重要ではないかというのが、星・長崎ユニットの1つの結論でもある。それは日本の文化が高い文脈性をもっているという指摘である。それゆえに西欧型の明晰性に欠けるところがある。しかし、グローバル化した世界において、やはり文化、国籍、階層、職種を超えての協働を余儀なくしている状況では、コミュニケーションは明晰であることが必要であろう。ややもすると、日本の文化の状況の中では、人への信頼が最後の拠り所であるという議論になりかねない。それはメッセージの曖昧さと裏腹の議論である。

一方で、人と人とは本当に分かりあえるものなのか、言語の明晰さだけでコミュニケーションは可能なのか、という疑問が残る。そこで、科学コミュニケーションにとって重要なのは、コミュニケーションの内容が絶対的に信頼できるかどうかではなく、むしろコミュニケーションのプロセスに対する信頼が重要ではないかと思う。つまり、「これは絶対大丈夫」ということに信頼することではなく,疑いがあったときに直ちにそれに対して応答がある、ということである。問いかけと応答の仕組みが存在し機能しているということ、ここに信頼性をおくことではないだろうか。欧州共同体の政治課題は、responsible research and innovation (RRI)である。ここでのresponsibleは問いかけに対して応答することであり「応答可能な」もしくは「応答力のある」とでも訳すべきことばである。つまり、問いかけと応答の仕組みが存在し機能している状況の中で研究とイノベーションを推進することが、科学技術についての賢い選択を可能にするということである。ここに科学コミュニケーションの社会的意味がある。