2.1.ⅴ.日本人の科学リテラシーとコンピテンシー

日本は、高コンテキスト社会であり、そこで生きるためには「行間を読む」そして「空気を読む」スキルが必要になる(本報告書 第2章2「「日本」という土壌」参照)。「空気を読む」ことは全体の和を重んじ、相手を思いやり、相手の立場を考える態度であり、良い性質であるといえる。しかしこの態度が主流になると、その社会は「出る杭を打つ」ようになる。なぜなら、空気を読まず、あえて自分の考えを述べること、そして自分の考えで行動を起こすことは、「空気を読む」ことを規範とする社会に刃向うものであるからだ。実際、若い人々には「空気を読めない」人をKYと呼ぶ風習があり、KYはその集団から排除されることで罰を受ける。さらに悪いことに、会話において論理や数字を駆使すると、「聞き手との共通点を見いだしながら円く収める、妥協点を探る(適応的、直感的)」の日本的レトリックから外れてしまうので、反感をかったり、むしろ何か大切なことをぼかす為に、(へ)理屈をこねているのではないかと疑われる。また日本では、相手の考えや主張に、論理で対峙すると、人格を攻撃されたと感じる人が多く、そのことも自分で考え議論することの難しさにつながっていると思われる。

このような「空気を読む」スキルは学校教育で獲得(または助長)されたとする議論が、本報告書をまとめるにあたって行われた。行間を読ませる問題は日本独特な国語教育に表れている。例えば、ある文学作品に対して「この主人公はどう考えたのでしょうか?」といった問いである。この問いは、作品としての解釈を国語教材とするものであるが、指導の仕方によって、論理ではなく問題作者や教師の情感または空気を問うものになってしまうことがあり、それにうまく対応するためには空気を読むスキルが大切になる。結果として、このような国語教育を行えば行うほど、「空気を読む」スキルの重要性が、若年層の深層心理に刷り込まれていくのではないだろうか。

この「空気を読む」スキルは、日本が世界に誇る「おもてなし」スキルにつながっているとも考えられる。「おもてなし」とは、客が要求する前に、もしくは客が望むであろうことを客が意識化する前に察知し、臨機応変にとりはからうことである。おもてなしで有名な石川県和倉温泉の老舗旅館・加賀屋では、その気遣いのことを「気働き」と呼んでいる(ベネッセ教育総合研究所、2007年)。このように短所であると思われることが、実は日本独自の長所となっているのだ。

同様に、「ゼロリスク」(本報告書 第2章3「生活リスクとリスクリテラシー」参照)を期待する日本人の思い込みは、短所であり矯正すべき態度であるようにも考えられるが、闇雲的な「ゼロリスク」信仰は、リスクを認めない人材養成をともなっており、世界に誇る安全社会を産みだした(例:新幹線、食品、治安など)。これは日本の強みであり、リスクに対する経済的妥協点を探すという、トレードオフの考えを否定するものである。一方、悪い点としては、自身の意見を論理的に述べない(考えない)、多様性を認めない国民性が、福島原発問題が生じた根底の議論不足:無条件の安全信仰につながっている可能性がある。その国民性こそが、大人になって科学リテラシーが低下するという事態を招いているのではないか。

グローバルな世界で成功者となるためには、グローバル化されにくい性質をもつことが必須であり、日本人の長所(すなわち短所)はそのための大切な資源となりうる。上記のような日本人の性質は、コンピテンシーに深く関わる因子であり、日本人の科学リテラシーを考えるために、必須の要件となる。ところで、そもそも何のためのリテラシーなのか、コンピテンシーなのかを考えたときに、それらは広い意味での幸福追求にかかわる能力であるべきことは、忘れてはならない要件だ。したがって科学リテラシーとリスクコミュニケーションの向上策を策定する際に、日本の特徴をむやみに否定・矯正することで、逆に日本の良さ、競争力を削いでしまうことがないように注意する必要がある。日本人の安全・持続的な発展があってこそ世界の安全・持続的な発展につながることを意識して、日本人のための処方箋すなわちコンピテンシーを策定することが何よりも重要となる。