2.2.ⅱ.日本における「智」のあり方

(1)4つの智のタイプ

奥村(2009)はベイトソンの理論に基づきつつ、それを発展させる形で、教える・学ぶという過程で行われるコミュニケーション(以下「教・学のコミュニケーション」と称す)を、4つのタイプに整理している。1つ目は、いわゆる伝統的な教室で行われる「矛盾した」やりとりであり、正解を知っている者が即ち問いを発する者となる、というタイプである[1]。通常のやり取りとしては、答えを知らない者が答えを知っていると思われる相手に対して問いを発し、問われた側が答えを知っていればそれを述べ、知らなければその旨を述べる、という形で問答が行われる(例えば、現在時刻を知らないものが、腕時計をしている者に対して現在時刻を問い、問われた側がそれに答える、というようなやり取りである)。それに対し、教育現場では、教員が「答えを知っている者」として問いを発し、生徒側が答えを知っていればそれを述べることによって答えを知っていることを示す。一方生徒側が答えを知らなかったり答えを誤ったりした場合には、質問を発した教師側が、答えを求められた生徒側に対して正解を教える、という問答が行われる。これは通常のやりとりの形からすればかなりいびつな形であるが、教育現場では多くの場合このようなやり取りを通して教員は教えており、生徒は学んでいる(岡田、1998)。このようにして学んだ場合、発想としてはどうしても「先生がもっている正解を当てる」という形になってしまうと考えられるが、そこには「正解は存在する」という前提があるはずである。従って本稿ではこのような前提に基づいて得られる智を「正解のある智」と命名しておく。

奥村(2009)にある2つ目の「教・学のコミュニケーション」は、教える側が積極的に「教え」るようなコミュニケーションを行わないというタイプである[2]。学ぶ側がいわば「勝手に学んで」いくことが期待される在り方で、主に徒弟制度などの現場で見られるとしている。徒弟制の現場では、弟子は最初些細な作業=周辺的な作業を任され、徐々に中心的な作業を任されるようになっていく(仕立て屋であれば、最初はボタン付け、次に縫製、次に裁断というように、服を作る作業の逆順に仕事を任されていく)ことにより、より本質的な部分を学んでいくという、実践を通した学びの在り方である。奥村(2009)によれば、「ここには『学習のカリキュラム』はあるが『教育のカリキュラム』はなく(「学ぶ」はあるが「教える」はない)、前者は『共同体の特徴』として状況に埋め込まれている」(p. 238)のである。このような学びを通して得られる智を、本稿では「倣いによる智」と命名しておく。

奥村(2009)にある3つ目の「教・学のコミュニケーション」は、日本の伝統芸能の伝承の現場などで行われるタイプである[3]。多くの場合、師匠が弟子に対して芸のノウハウを直接手足を取って指導することは少ないにも拘わらず、弟子はその芸を身に付けていく、という意味では「学習のカリキュラム」はあっても「教育のカリキュラム」が存在しない前項と共通するところもあるが、この3つ目のタイプが2つ目のタイプと異なる点は、しばしば弟子は師匠から(罵声なども伴い得る)激しい否定的評価のみは受ける、という点である。弟子は何が悪いのかを説明されないまま、自分の芸が不十分であるという評価のみを受け続け、試行錯誤していくうちに、単に型を踏襲したり、師匠の芸を真似たりするのではない「自らの芸」に到達する。その段階になって初めて、師匠から認められ、褒められるのであり、この師匠からの肯定的評価を得てはじめて弟子は芸を会得することができる、という学びの在り方である。このような学び方によって得られる智を、本稿では「評価に基づく試行錯誤から得る智」と命名しておく。

奥村(2009)にある4つ目の「教・学のコミュニケーション」は、ソクラテスと弟子との対話にあるようなタイプである。即ち、師と徒が問答を重ねることによって得られる「智」だが、これは必ずしも「知っている」者としての師から「知らない者」としての生徒が何かを学ぶという形にならない。奥村(2009)はソクラテスとメノンとの「徳」に関する対話[4]を例に引き、「ここでは『知らない人びとの共同体』の一員(ソクラテス)が『知っている人びとの共同体」の一員(メノン)に教え、その結果、後者は『知っている人々の共同体』から引き剥がされることになる」(p. 247)とし、「ここには、これまでとは正反対を向いた『教える/学ぶ』があるように思う」(p. 247)と指摘する。このような例にみられるような、議論を通して得られる智を、本稿では「論破されて得る智」と命名しておく[5]

奥村(2009)は4つの学びのタイプについて、「いうまでもなく、このどれが良い教育だというわけではない。教え/学ぼうとするものの水準が異なり、それぞれがある可能性と限界をもつのだから。」(p. 249)と述べている。従って智のあり方としても、上記4つのタイプのどれが勝っているともいえない。が、何を学ぶのかや、どのような智を得るかによって、どのやり方がより適切であるかには差があって当然だろう。

 

(2)日本での学び方

池田(2011)によれば、1872年に学制が敷かれて以降、近代日本の学校制度の中では「教師1人が多数の生徒に教える学級制度の方がはるかに効率的」(p. 132)であった。そのため、生年月日を年度で区切り、同じ年度に生まれた生徒を集めて一つのクラスとし、その全員が同じ内容の授業を受ける、という形の教育が普及したと考えられる。その結果現在のような教育風景となったわけだが、渡部(2013)は次のように述べている。

日本の場合、教壇で講義を行う知識注入型の授業スタイルが主流になってきた。黒板に要点を書き出してから内容を解説するいわゆる「チョーク&トーク」の授業がその典型である。知識注入型授業では、教員から学習者に権威をもって正しい知識を伝達する一方向のコミュニケーションが基本になっている。(pp. 38-39)

これは正に、先に述べた「正解のある智」を教えるという形である。

 2012年のPISA調査で、日本がOECD加盟国34か国中、数学的リテラシーで2位、読解力と科学的リテラシーで1位の得点を得た(国立教育政策研究所、2013)ことは、「正解のある智」を学んだ結果であるという見方もできなくはないかもしれない。渡部(2013)は「この授業スタイルの利点は、精選された知識を大勢の学習者に一斉に伝達できることであり、その意味で効率的な授業である」(p. 39)としており、その成果は確かに見えている。

しかし、星・長崎ユニットでの議論の中で、科学的リテラシーは「正解のある智」を学んでいるだけでは不十分であり、正解を求めるような考え方自体が問題なのではないかという指摘が繰り返しなされた。むしろ、論理的不整合があった場合にそれを見抜く力や、蓋然性や確率といった考え方に基づいた論じ方ができるかどうかの方が重要ではないかということである。蓋然性や確率論自体は数学教育の範囲内であると考えられるが、物事を論じるということになれば、国語教育がその根幹を担っているはずであろう。従って次節では日本の国語教育がどのような方針で行われているのかを検討していく。

 

(3)日本の国語教育

「学校教育法施行規則」には、小学校・中学校・高等学校それぞれに対して、「教育課程の基準として文部科学大臣が別に公示する小学校/中学校/高等学校学習指導要領によるものとする。」という記述がある[6]ことから、学習指導要領は日本の教育カリキュラムの根幹をなすものと捉えて良いと思われる。そこで、小学校から高等学校までの学習指導要領の中で、国語教育がどのように扱われているかを、『学習指導要領解説』から概観してみたい。

「生きる力」をテーマに、小学校では2011年から、中学校では2012年から、高等学校では2013年から、それぞれ施行されている現在の学習指導要領では、「伝え合う力」が最大のテーマとなっている。国語科の目標としては、小学校では「国語を適切に表現し正確に理解する能力を育成し、伝え合う力を高めるとともに、思考力や想像力及び言語感覚を養い、国語に対する関心を深め国語を尊重する態度を育てる」(p. 8)を掲げ、中学校では酷似した文言である「国語を適切に表現し正確に理解する能力を育成し、伝え合う力を高めるとともに、思考力や想像力を養い言語感覚を豊かにし、国語に対する認識を深め国語を尊重する態度を育てる」(p. 8)とした上で、高等学校では「国語を適切に表現し的確に理解する能力を育成し、伝え合う力を高めるとともに、思考力や想像力を伸ばし、心情を豊かにし、言語感覚を磨き、言語文化に対する関心を深め、国語を尊重してその向上を図る態度を育てる。」(p. 8)としている。更に、小学校では低学年(第1学年・第2学年)、中学年(第3学年・第4学年)、高学年(第5学年・第6学年)別に、また中学校では学年ごとに、「各学年の目標と内容」が設定されているが、それらは「A 話すこと・聞くこと」「B 書くこと」「C 読むこと」に分かれている[7]

 

 (3)-1. テキストとの対峙:「正解のある智」の姿
吉武(2011)は次のような指摘をしている。

国語の読解テストに、「下線部で作者は何を述べたかったのか」を問う、お決まりの問題がある。センター試験ならば、5つの選択肢から「正しい」答えを選ばなくてはならない。この問題では、作者の「言いたいこと」が出題者により前もって想定され、回答者はその「意図」を読み取らなければならない。つまり、下線部の内容に賛成か反対かは関係なく、読む人が作者(または登場人物など)に「共感」できる能力が問われているのである。(p. 138)

そこで、この指摘を検証するために、「読むこと」に関する部分から関連すると思われるものを抜き出してみる。

表2-2-1 各学年における「読むこと」の指導事項(抜粋)

これが中学校段階では次のようになる。

表2-2-2 各学年における「読むこと」の指導事項(抜粋)

高等学校には、指導事項として、次のような記載がある。

国語総合

文章を的確に読み取ること、要約や詳述をすることに関する指導事項:文章の内容を叙述に即して的確に読み取ったり、必要に応じて要約や詳述をしたりすること。(p. 22)

表現に即して読み味わうことに関する指導事項:文章に描かれた人物、情景、心情などを表現に即して読み味わうこと。(p. 23)

現代文B

書き手の意図や描写されたことを的確にとらえ、表現を味わうことに関する指導事項:文章を読んで、書き手の意図や、人物、情景、心情の描写などを的確にとらえ、表現を味わうこと。(p. 54)

「読み取」ることや「的確にとらえ」ることを重視した指導がなされる場合、やはり教師は「正解を知っている者」として生徒の前に立つことになるのではないか。だとすれば、日本の生徒たちは高等学校を卒業するまで「正解のある智」を求め、答えを当てようとする学び方を続けていく可能性は否定できない。

渡部(2013)は、「日本でも、知識注入型の授業から学習者の参加や表現を重視する授業スタイルにバランスを移し変える試みが行われている」(p. 39)と指摘してはいるが、現場では「正解のある智」を教えるという態度が廃れたとは決して言えない。その一例として、小学校の国語科の教育法を論じた書物の中で「子どもが自分たちで考えたように仕向けながら、実は教師がきちんと押さえておかなければならないポイントを整理しておき、それを学びとらせることが授業なのです」(牛頭・森、2012、p. 45)、「正解のフレーズを子どもに言わせることが大切なのです」(同、p. 49)と記載されていることを挙げよう。

一方、そのこと表裏一体になっているものとして、ここで重視されている読み方は、あくまでテキストに基づいた精緻な読み方であるといえないだろうか。例えば、次のような指導項目には、それがはっきりと表れている。

国語総合

表現の仕方を評価すること、書き手の意図をとらえることに関する指導事項:文章の構成や展開を確かめ、内容や表現の仕方について評価したり、書き手の意図をとらえたりすること。(p. 24)

現代文B

文章の構成、展開、要旨を的確にとらえ、その論理性を評価することに関する指導事項:文章を読んで、構成、展開、要旨などを的確にとらえ、その論理性を評価すること。(p. 53)

テキストとじっくり対峙するような読み方が奨励されているというのは、日本の国語教育の一つの特徴であるといえよう。一方、テキストに書かれていることを基にして自分の論を展開するような読み方を指導するような項目は余り見当たらない。この点について、次節で更に検討する。

 

(3)-2.自己陶冶:「倣いによる智」の存在

 先に挙げた小学校高学年の「読むこと」の指導事項の中に、「自分の考えを明確にしながら読んだりする」や「自分の考えをまとめる」(p. 107)などの記述がある。中学校の指導事項に関しても、次のような記述がある。

表2-2-3 各学年における「書くこと」及び「読むこと」の指導事項(抜粋)

書いたものを互いに読み合うのは、最終的には「自分の表現の参考にし」たり、「自分の考えを広げ」たり「ものの見方や考え方を深める」ためであるとされている。また、読むことについても、自分の考えを形成するために読むというスタンスであり、「自分の考えをもつこと」や「自分のものの見方や考え方を広くすること」、「自分の考えをまとめること」、「自分の意見をもつこと」が奨励されている。

高等学校の学習指導要領の中にも、次のような記述がある。

現代文A

ものの見方、感じ方、考え方を読み取り、考察することに関する指導事項:文章に表れたものの見方、感じ方、考え方を読み取り、人間、社会、自然などについて考察すること。(p. 47)

現代文B

文章を批評し、考えを深め発展させることに関する指導事項:文章を読んで批評することを通して、人間、社会、自然などについて自分の考えを深めたり発展させたりすること。(p. 54)

ここでもまた、「人間、社会、自然などについて考察」したり、「自分の考えを深めたり発展させたりする」ことが奨励されている。このように見てみると、日本の国語科教育は、各人の内面を磨くことを重視した指向性をもつものであることが見えてくる。

そのようにして「もっ」たり「まとめ」たりした自分の意見は、どうするのだろうか。小学校学習指導要領の中から特徴的であると思える箇所を抜き出してみる。

表2-2-4 「聞くこと」「話し合うこと」「交流」に関わる指導事項(抜粋)

低学年の「発表し合う」については、「互いの思いを分かち合ったり、感じ方や考え方を認め合ったり」することであるとされ、「交流のための発表は、共感的な態度で受容する雰囲気をつくる配慮が必要である」(p. 49)と解説されている。中学年の「書くこと」の中の「交流に関する指導事項」にある「書いたものを発表し合い、書き手の考えの明確さなどについて意見を述べ合うこと」という指導事項については、下記の解説が付されている。

低学年の「オ 書いたものを読み合い、よいところを見付けて感想を伝え合うこと。」を受けて、書いたものを読み合ったり音読したりして発表し合い、考えの明確さや書き方の巧みさなどについて意見を述べ合うことを示している。

「書いたものを発表し合」うことでは、推敲して書き終えた文章だけではなく、学習計画や、取材、構成の段階のメモなど書くことの学習過程についても発表し合うように工夫する。また、記述した内容以外に、相手について配慮したことや、記述の仕方などで工夫したことなどを紹介し、自分の考えがなぜそのような考えに至ったのかというきっかけなどについても交流させるようにすることが大切である。(p. 72;下線は筆者による)

これも、相手への配慮を前提とし、技巧に関する「意見を述べ合う」ことはしても、相手の論そのものに対して意見を述べることは求めていない。つまり、自分の意見や考えを相手に向けて返すことは期待されていないようである

小学校の段階では、むしろ互いに尊重し合うことを教えることの方が大切であるという考えは納得できるものでもある。そうであればこそ、「国語の時間で一番楽しい伝え合い活動」(牛頭・森、2012、p. 155)も可能となろう。ではこのような指向はどの段階まで保たれるのであろうか。

下記は中学校の学習指導要領からの抜き出しである。

表2-2-5 各学年における「話すこと・聞くこと」の指導事項(抜粋)

自分の意見を発表するところまでは視野に入っているが、最終的には他人の発表を聞くことは、互いの意見の違いを認識するところで留まり、相手の論を批判するためではないことが伺える。「表現の仕方に着目して助言」することまではあっても、発言の内容や考え方自体には立ち入らない、という態度であるかのように思える。

先に挙げた、高等学校の指導要領の中にあった

国語総合

表現の仕方を評価すること、書き手の意図をとらえることに関する指導事項:文章の構成や展開を確かめ、内容や表現の仕方について評価したり、書き手の意図をとらえたりすること。(p. 24)

現代文B

文章の構成、展開、要旨を的確にとらえ、その論理性を評価することに関する指導事項:文章を読んで、構成、展開、要旨などを的確にとらえ、その論理性を評価すること。(p. 53)

という事項でも、「評価」されるものは、「テキストの内容や表現」及び「公正、展開、要旨などの論理性」である。ここでもまた、あくまでテキストと向き合いことが大切にされており、行われる評価もテキストに対しての評価である。一方、他人が行ったテキストに対する評価そのものを評価するところまでは視野に入っていないように思われる。

このことは、「国語総合」の「読み比べたことについて、感想を述べたり批評したりする言語活動」の「様々な文章を読み比べ、内容や表現の仕方について、感想を述べたり批評する文章を書いたりすること」の解説部分で述べられている「『批評』とは、対象とする文章の内容や表現の仕方について、その特色や価値などを論じたり、評価したりすることである」(pp. 26-27)という一節でますますはっきりしてくる。また、「現代文A」の「読み比べたことについて、話し合ったり批評したりする言語活動」について、「図書館を利用して同じ作者や同じテーマの文章を読み比べ、それについて話し合ったり批評したりすること」(p. 50)とある項目の次の解説からも読み取れる。

「話し合ったり批評したりする」は、読み比べて分かったことや、気付いたことについて、交流したり考えをまとめたりする仕方を示している。文章を的確に批評するためには、文章を主観的に味わうだけでなく、客観的、分析的に読み深める必要がある。そのためには、例えば、用いられている語句や語彙、表現の仕方などについて、その意図や効果を評価しながら読むことが大切である。(p. 50)

このような項目は、国語科という教科が、最終的には自分自身の内省と自己陶冶に資することを目的としているように感じさせる。このことは「国語総合」の「表現について考察したり交流したりして、考えを深めることに関する指導事項」にある「話したり聞いたり話し合ったりしたことの内容や表現の仕方について自己評価や相互評価を行い、自分の話し方や言葉遣いに役立てるとともに、ものの見方、感じ方、考え方を豊かにすること」(p. 17)という項目の解説からも伺える。

「自己評価や相互評価」は、自分や他者の表現を客観的に吟味、評価する能力を育成し、表現する能力を一層伸ばすことに役立つ。「相互評価」は、これに加えて、生徒同士の交流の活性化を促し、他者のもつ価値観などと出会う契機ともなる。これらの能力を育成するためには、個々の生徒の実態に十分に配慮した学習過程を設定し、互いに学び合う態度や、互いの評価を認め合う雰囲気を大切にするなど、適切な指導が必要となる。

「自分の話し方や言葉遣いに役立てる」とは、主に表現の仕方についての評価を通して得たことを、実際的な場面における話し方や言葉遣いに活用することである。話し方や言葉遣いなどを身に付けることについては、これまで〔言語事項〕に示していたが、今回の改訂では「A 話すこと・聞くこと」の指導事項として示し、実際の言語活動において有効にはたらくよう指導する必要があることを明確にした。(p. 17)

このことを最も端的に表したのが、「国語表現」の「表現について考察したり交流したりして、考えを深めることに関する指導事項」である「様々な表現についてその効果を吟味したり、書いた文章を互いに読み合って批評したりして、自分の表現や推敲に役立てるとともに、ものの見方、感じ方、考え方を豊かにすること」(p. 40)ではないだろうか。これには下記の解説が付されている。

優れた表現に接してその条件を考えることは、「B 書くこと」の(1)のエで指導している。ここでは接する対象を「様々な表現」へと広げ、自らの表現や推敲に役立てるための前提として、それらの「効果を吟味」することとしている。

「効果を吟味」するの「効果」とは、文章や話し言葉がその場の目的のために発揮する効果、表現主体がその個性を発揮し、その場の目的を達成するために意図した効果、個々の表現の技法が表現全体を構成する上で発揮する効果などである。

「吟味」するとは、上記のような様々な表現に触れ、対象を分析的に読んだり聞いたりして、それぞれの表現が発揮している効果を検討することである。

書いた文章を交流することについては、「国語総合」で指導している相互評価を行うことを踏まえ、ここでは「書いた文章を互いに読み合って批評」することとしている。

「自分の表現や推敲に役立てる」とは、上記のような活動によって得た成果を、自らの書くことの活動や、書いたものを推敲する活動に生かすことである。ここでは、「国語総合」で指導している自分の表現に役立てることのみならず、推敲に役立てることも明示している。(pp. 40-41;下線は筆者による)

「推敲に役立てる」のであれば、自分を高めるために批評する、という態度は一層明確になるだろう。

ここまでで、作者がその場にいないテキストに対する批判は行っても、同じ教室という場にいるクラスメートの意見について直接論じることは避けようとしている様子が見えてきた。これは教える側の立場で意図的に行っているという面もあるだろうし、生徒たちがそのような方向を向きたがるということもあるだろう。それでは、何故クラスメートに対する批判や反論を嫌がるのか。次節ではその点を検討してみたい。

 

(3)-3. 意見の一致への指向:「論破されて得る智」の不在

小学校低学年の「話すこと・書くこと」の言語活用例として、「物事の説明や経験の報告をしたり、それらを聞いて感想を述べたりすること」と共に「尋ねたり応答したり、グループで話し合って考えを一つにまとめたりすること」という項目がある(p. 38)。これに対しては、下記のような解説が付されている。

「グループで話し合って考えを一つにまとめたりすること」では、話題に関して最終的に考えを一つにまとめることを求めている。考えを一つにまとめるためには、例えば、一人一人が自分の考えを出し合ってから、グループで考えをまとめていくような過程を重視することが大切である。第1学年の当初は、ペアでの話合いから始め、徐々に、3人、4人と人数を増やしていくようにする。(p. 39)

また、小学校中学年の「話すこと・書くこと」の言語活動例としても「出来事の説明や調査の報告をしたり、それらを聞いて意見を述べたりすること」と共に「学級全体で話し合って考えをまとめたり、意見を述べ合ったりすること」という項目がある(p. 65)。これについては下記のような解説が付されている。

学級全体で話し合うためには、司会者や提案者、参加者などの役割を決めて運営することのみならず、個人やグループの意見を十分明確にする時間を確保することが必要となる。その際、個人やグループの意見の共通点や相違点を整理し、それぞれの考えを反映させながら、学級全体として一つの考えに集約することや、討論を交わして考えを深め合ったり広げ合ったりすることが重要となる。(p. 66)

これらの項目から明白に分かることは、小学校低学年のうちから、クラスの意見を一つにまとめることが指向されているということである。子供達は「意見が一致することは良いことである」という考え方をはっきりと学んでいくであろう。

高等学校の「国語総合」の「話すこと・聞くこと」の中の「話合いや討論をする言語活動にも「反論を想定して発言したり疑問点を質問したりしながら、課題に応じた話合いや討論などを行うこと」(p. 18)という項目があるが、これについての解説としては下記のように述べられている。

「反論を想定して発言したり疑問点を質問したり」するためには、そのような事前の準備が役に立つ。このことは、自分の考えや意見を根拠を明確にして論理的に述べることに資するとともに、相手の立場や考えをできるだけ尊重して、様々な意見を聞き合うことにもなる。さらに、建設的な話合いや討論を行い、考え方がまとまっていない事柄について合意を図ったり、よりよい方向性を見いだしたりすることにつながる。(pp. 18-19;下線は筆者による)

ここでも「考えがまとまっていない事柄」については「合意を図る」ことが示されている。

「国語表現」の「異なる考えを尊重し、課題解決のために話し合うことに関する指導事項」については、「相手の立場や異なる考えを尊重して課題を解決するために、論拠の妥当性を判断しながら話し合うこと」(p. 38)というものがあるが、この解説にも「合意形成」が謳われている。

「課題を解決するため」の話合いでは、話し、聞くという双方向性を有する活動を通して、合意を形成することが求められる。その際必要となる、相手の立場や考えを尊重することは、「国語総合」の「A 話すこと・聞くこと」の(1)のウで指導している。ここでは、それを踏まえ、「異なる考えを尊重」することとしている。社会生活においては、自らのものの見方、感じ方、考え方を単に主張するだけではなく、自分とは異なる考えを丁寧に聞き、それを尊重することも大切なことである。(pp. 38-39;下線は筆者による)

しかし、高等学校レベルともなれば、さすがに常に合意が得られるわけではないだろう。そうなった時にどうするのか。「国語総合」の中の「話すこと・聞くこと」の指導事項の一つである「工夫して話し合うことに関する指導事項」の「課題を解決したり考えを深めたりするために、相手の立場や考えを尊重し、表現の仕方や進行の仕方などを工夫して話し合うこと」(p. 16)の解説には、次のように記されている。

「相手の立場や考えを尊重し」て話し合うためには、まず、相手の考えを的確に理解する必要がある。相手が話している考えには、その基となる事実や事柄、考えを形成する過程がある。それらを的確に理解することが大切である。ただ、相手の立場や考えを尊重するといっても、相手の意見を無批判に受け入れることではない。相手の考えの要点を自分なりに整理すること、相手の示す根拠の適否などを確かめるために質問すること、相手の意見と自分の意見との共通点や相違点についてまとめることなどを通して、考えの相対化を図る必要がある。(p. 16;下線は筆者による)

相手の意見に批判的な感想をもった場合は、それを相手にぶつけるのではなく、「考えの相対化を図る」ようにして、相手との衝突を回避していると考えられる。同様の指向は、「国語表現」の「発表や討論をする言語活動」にある「様々な考え方ができる事柄について、幅広い情報を基に自分の考えをまとめ、発表したり討論したりすること」(p. 42)という項目の解説からも読み取れる。

社会生活において直面する事柄は、一つの考え方に集約できることばかりではない。そこで、ここでは「様々な考え方ができる事柄」を話題として取り上げることを示している。そして、そのような事柄について、「幅広い情報を基に自分の考えをまとめ」ることとしている。このことは、自分の考えを相対化し、異なる立場や考え方に思いを巡らし、反論を想定することにもつながる。

「発表」や「討論」をする際には、必ず具体的な相手が存在し、その相手に向かって言語活動を行う。そこで、相手の立場や状況などを把握して、自分の考えを分かりやすく伝えることができるよう工夫する必要がある。同時に、聞き手も、論点の明確さ、主張や論拠の妥当性、例示の適切さなどに注意しながら、相手の話を聞くことが大切である。話し手と聞き手とが対等に意見を交換し合う討論だけでなく、発表の場合でも、話し手に対して、聞き手が聞き返したり尋ねたりする学習を適宜組み込む必要がある。相手意識を明確にし、話し手と聞き手双方の交流の中で学習が効果的に進むよう配慮することが大切である。(p. 42)

つまり、合意が形成できないときは、意見の相違に基づいた「学習」が指向されるといえる。即ち、日本の国語教育で重視されている「伝え合い」とは、相手の発話を直接批判することのない「伝え合い」なのではないだろうか。

若干立場を異にするのが中学校の指導要領であろう。ここでは「話すこと・聞くこと」の言語活動例として、第1学年では「日常生活の中の話題について対話や討論などを行うこと」(p. 40)、第2学年では「社会生活の中の話題について、司会や提案者などを立てて討論を行うこと」(p. 64)、第3学年では「社会生活の中の話題について、相手を説得するために意見を述べ合うこと」(p. 88)が挙げられている。「討論」という言葉が登場するのである。しかし、その解説には「話し手がある程度まとまった話をし、それを聞いて質疑応答や意見交換をする言語活動、互いの思いや考えなどを深めたり広げたりしていく対話や討論などの言語活動を示した」(pp. 19-20)とある。これだけを見ると、「討論」の範囲が「質疑応答」や「意見交換」に留まっているように読める。一方、学年別の解説部分には「『対話や討論』では、話の要点をメモしたり必要に応じて質問したりしながら聞き取り、互いの共通点や相違点を整理することを通して、建設的な話合いをすることが大切である」(p. 40)という指南や、「異なる立場の考えを想定して、自分の考えを分かりやすく話すことが大切である」(p. 65)という指摘がなされている。中学校第3学年の解説には、次のように述べられている。

「相手を説得する」とは、話の内容を相手に理解させ、納得させることである。話の内容を相手に理解させるためには、論理的に話す力が要求される。また、相手に納得してもらうためには、論理だけではなく、自分の考えを相手に受け入れてもらえるよう、(中略)第1学年の「A 話すこと・聞くこと」(1)ウの「相手に分かりやすい語句の選択、相手や場に応じた言葉遣いなどについての知識を生かして話すこと」も求められることになる。また、根拠を明確にすること、強調して表現すること、適切な言葉遣いで話すことなどが、説得力を増すことにつながることを気付かせるようにする。(pp. 88-89)

一旦中学校レベルでこのように述べていながら、高等学校レベルで再度合意形成が目指されるのは不思議な気もする。結局は合意形成の方が日本社会の中ではより必要とされるという判断なのだろうか。

 

(4)まとめ

以上、国語科の学習指導要領を通して日本の智のあり方を検討してきた。じっくりとテキストと対峙するという国語科の活動は、「正解のある智」を教え、学ぶことにつながっていくだろう。そして、そこで行われた活動を自己陶冶のために使うという態度は、「倣いによる智」の一つのあり方であるともいえるであろう。一方、学級全体の意見一致は望ましいことであると捉えるが故に、批評・批判を行う対象はあくまでテキスト自体か他人の表現技巧的な面に留め、他人の考え方自体は直接批判しない、という態度は、「論破されて得る智」を得る可能性が非常に少ないことを伺わせる。(因みに、奥田(2009)が日本での芸の伝承のやり方を念頭において論じた「評価に基づく試行錯誤から得る智」は、国語教育の現場では見られないようである。やはり大勢に対する一斉授業という教室の場には馴染まないのであろう。)

日本の国語教育の中では「論破されて得る智」を得る可能性が非常に少ない、という点をより際立たせるために、アメリカの「国語」にあたる教科であるLanguage Arts の基準を参照してみたい[8]。この基準では、1年生のうちから他人の発言に加える形で自分の発言を行うことが指導項目に入っている[9]。小学校高学年では他人の発言を発展させられるような発言を行うことが指導項目に入り[10]、中学校卒業・高等学校入学程度になると他人の発言に対して疑義を呈することが指導項目に入っている[11]。勿論、このような違いの背景には日米の文化差があるので、どちらが良い・悪いということではないが、両者が大きく異なることは確かである。

若干余談気味ではあるが、このアメリカの基準の興味深い点は、「読み」と「書き」の範囲を歴史・社会科・理科・技術科の教科まで含めて捉えていることである。生徒たちが読む教材について、文学関連のものと説明・情報関連のものの比率が示されているが、4年生レベルでは両者が半々、8年生レベルでは前者が45%に対して後者が55%、12年生レベルでは前者が30%に対して後者が70%とされており、この後者の中に歴史・社会科・理科・技術科のものも含むとしているのである。日本の学習指導要領が教科ごとに縦割りになっているのに対し、生徒の学力をより包括的に捉えている点には参考にできるところもあるように感じる。

そもそも、先に言及した、国語科の目標からして、日本の国語教育がもっている指向性がアメリカのものとは異なることは明らかである。下記はこれらの目標の明記を、外国語教育の現場でよく行われる区別である「受容能力」(読むこと、聞くこと)と「産出能力」(書くこと、話すこと)に分けてみたものである。

表2-2-6 国語科における教科の目標

「受容能力」でも「産出能力」でもなく、「その他」とせざるを得ない事項が遥かに多い。つまり、日本の国語教育は「言語教育」としての側面は弱いといえるのではないか。では日本の国語教育とは一体何なのか?と考えた時、一つの答えとして浮かび上がるのが、日本の社会で機能するコミュニケーションの方法を身に付けさせる、という機能である。

 そこで、次に、日本におけるコミュニケーションのあり方を検討してみる。

  

[1]奥村(2009)によれば、ベイトソンのいう「学習I」に相当する。

[2]奥村(2009)によれば、ベイトソンのいう「学習II」に相当する。

[3]奥村(2009)によれば、ベイトソンのいう「学習III」に相当する。

[4]ソクラテスはメノンに「徳は人に教えることができるか」と問われると、「徳とは何か」を定義する対話を重ね、メノンが想定していた「徳」とば矛盾するような定義を導き出してしまう。その結果、「徳とは何か」を知っている上でソクラテスに問うたメノン自身が「徳とは何かが分からない」状態になってしまう。

[5]但し、この命名の仕方は奥村(2009)が論じていた学びの分類での主眼とずれる。奥村はこの類の学びは「知」から「無知」への学びであるという意味で他の学びとは異なることを強調しているのであり、議論を通じて行われる学び自体が他の学びと異なると述べているわけではない。

[6]http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S22/S22F03501000011.html (2014年8月6日参照)

小学校=第五十二条、中学校=第七十四条、高等学校=第八十四条、にそれぞれの記載がある。

[7]高等学校でも基本的にはこの区分を踏襲しつつ、「国語総合」では上記3区分全てが中心的指導事項に含まれるのに対し、「国語表現」では「話すこと・聞くこと」と「書くこと」のみが、「現代文B」では「読むこと」のみが中心的指導事項に含まれるとされる。

[8]Common Core State Standards Initiative (2010). アメリカでは教育は州の管轄だが、各教科について連邦レベルで一定の基準を設けるようになった。それぞれの基準に法的な拘束力はないが、各州ではこの連邦レベルの基準に準じで州基準を作成するようになってきている。

[9]Grade 1 Students: Build on others’ talk in conversations by responding to the comments of others through multiple exchanges.

[10]Grade 5 Students: Pose and respond to specific questions by making comments that contribute to the discussion and elaborate on the remarks of others.

[11]Grade 9-10 Students: Propel conversations by posing and responding to questions that relate the current discussion to broader themes or larger ideas; actively incorporate others into the discussion; and clarify, verify, or challenge ideas and conclusions.