2.2.ⅲ.日本における「コミュニケーション」のあり方

(1)  コミュニケーションとは

 コミュニケーションの定義はこれまで100以上出されているが、石井(2013)は次のように定義する。

「コミュニケーション」とは、一定の物理的および社会的・文化的コンテキストにおいて、複数の参加者が、外的および内的障害物すなわちノイズの影響を受けながら、多様なチャンネルによる言語メッセージおよび非言語メッセージの授受・交換行動により、情報・思想・感情・経験などを交換するために、相互に影響しあう動的な開放システム的相互作用過程である。(p. 2)

コミュニケーションを概念化するに当たり、「情報源」である発信者から「送信装置」や「チャンネル」を通って受信者である「目的地」までメッセージが到達することを想定した「線型モデル」が最初に考案されたが、その後発信者によって発信されたメッセージは受信者によって解読され、解釈された後に、再度の記号化を経て「返信」されるという「円環型モデル」が考案された。この円環型モデルによれば、メッセージは発信者と受信者との間で完全に一致することは有り得ず、どんなメッセージ、どんなコミュニケーションでも、必ずズレを含むものとなる。これは、メッセージが言語的・非言語的記号から形成されるものである以上、記号と指示対象との関係の恣意性から必然的に導かれることである。この「ズレ」を、コミュニケーション不全の原因と捉えるか、新たな「意味」の産出と捉えるかは、立場によって異なるが、いずれにしても、コミュニケーション過程ではやりとりされる情報は決して「透明」なわけではなく、特定の状況下で発信者と受信者との間で行われたメッセージ交換の産物という「付加」のついたものになる[1]。また、コミュニケーションは常に合意を導くわけではなく、場合によっては表面上得られていた合意を破壊することも有り得る(船津、1996)。しかし、そのような事態に至った上で次のステップに進むにはやはりコミュニケーションが必要である。このように考えると、人間は言語記号及び非言語記号という極めて不十分な手段を用いて、必ずしもお互いのメッセージを理解しないまま、コミュニケーションを進めていると言うことができる。それでも破綻しないのは、大抵の場合はその程度の理解でも支障をきたさないからである。しかし、「完全な理解は有り得ない」ということ自体は、常に留意しておく必要があろう。これは日本に限らず、人間のコミュニケーション全てについて言えることである。

 

(2) 日本のコミュニケーション

(2)-1. 日本のコミュニケーション

岡部(1996a)は、「日本の社会と文化の本質を理解するキーワードは『同質性』と『垂直性』である」と述べ、「日本ではその同質性の高さのために、メンバーの意識は共通性に特徴づけられていると考えられている」(p. 47)と指摘している。また、「日本の社会は複雑な地位・階級によって幾重にも階層化された階級社会である」(p. 48)とも指摘し、対比概念としてアメリカ文化の「異質性」と「水平性」を提示している。更に、この基本概念から派生させて、日本の対人関係の価値前提を「相互依存的」及び「画一主義的」(補完的な人間関係に高い価値を置き、「一匹狼」より「グループ・プレーヤーを尊重」する)、思考パターンについての価値前提を「合成的」「主観的」「相対的思考」「全体的」(部分に分けて見るより全体を総合的に考慮し、個々の状況に応じた判断基準が適応される)、世界観(対自然観)を「適応」「調和」(人間は自然と調和を保っている存在であり、自然とは不可分なものであると把握する)としている。

このような社会背景をもった日本でのコミュニケーションについて、「日本人ははっきりものを言わない」「日本では直接的なもの言いや断定的なもの言いは避ける」などという言説は巷にも氾濫しているように感じられるが、異文化間コミュニケーションの分野でもこの点はずっと注目を集め続けてきた。

古家(2013)は、「日本的コミュニケーション」について、次のように述べている。

日本に多く典型的にみられるコミュニケーションとして考えられるものは、「阿吽の呼吸」、「甘え」、「遠慮と察し」、「以心伝心」、「ホンネとタテマエ」などがある。いずれも、日本人の対人コミュニケーションの特徴として、他者配慮や人間関係を含めたコンテキスト重視のコミュニケーション形式である。英語圏にみられる白か黒かという二者択一のコミュニケーションではなく、白も黒も、あるいはその中間の灰色を選ぶというようなコミュニケーションである。また、表現も直接的でなく、間接的に柔らかく相手に当たり、含蓄や余韻が付随し、判断を聞き手に委ねるようなあいまいな場合も出て来る。(p. 391)

ここに挙げられている「阿吽の呼吸」「甘え」「遠慮と察し」「以心伝心」「ホンネとタテマエ」は、いずれも聞き手が「言わなくても分かるはず」であることが前提となっているといえる。これは岡部(1996a)が指摘した日本社会の「同質性」があってこそ可能なはずである。このような「言わなくても分かるはず」という前提をもって行われるコミュニケーションは、「高コンテキスト・コミュニケーションスタイル」と呼ばれる。

(2)-2. 高コンテキスト・コミュニケーション

Hall(1976)は、様々な文化で取られるコミュニケーションスタイルの中に、比較的多く言語を用いて相手にこちらが伝えたいことを理解させるコミュニケーションスタイルと、言語は余り多用せずにその場の状況(物理的な場・コミュニケーションに関わっている当事者同士の対人関係など)からこちらが言いたいことを相手が理解してくれることを期待するコミュニケーションスタイルがあるとし、前者を低コンテキスト・コミュニケーション、後者を高コンテキスト・コミュニケーションと名付けた。この分類に従えば、日本は高コンテキスト・コミュニケーション文化である。人々は常にその場の状況を踏まえた形でコミュニケーションを行い、相手も自分と同様にその場の状況を把握しているという前提のもとに、伝えたいこと全てを言語化することは控え、逆に言語化しなかった部分を相手が推測で補ってくれる(それも正しく推測してくれて、こちらの意図に沿うように補ってくれる)ことを期待する。石井(1996)はこれを「遠慮と察しのコミュニケーション」として概念化した。

このようなコミュニケーションスタイルが成立するためには、コミュニケーションに参加している者が全員同様の状況把握をしている必要があり、またそのことを前提とした上ではじめてこのようなスタイルのコミュニケーションが成立し得る。その意味では、このコミュニケーションスタイルは、岡部(1996a)が指摘した、日本で「同質性」が前提とされていることと密接に結びついている。また、岡部が日本人の思考パターンを「点的」「間(ま)的」と表現したのとも通じる側面がある。「点的」な思考とは、首尾一貫した論理に沿って物事を考え、またそれを表現していくのではなく、一から十まで全てを言語で説明することはせずに、相手が補いながら聞いて理解してくれることを考慮した上での論理展開を行うことである。自分と相手との間での「同質性」が前提であるからこそ成り立つ思考方法・論理展開であるといえる。

更に、このようなコミュニケーションスタイルでは、必然的に聞き手が果たす役割が大きくなる。話し手は自分が言葉にしなかった部分は聞き手が察し、補って理解してくれることを期待するし、聞き手は自分がそのように期待されていることを自覚しつつ、言語化されていない部分まで含めて話し手の意図を理解しようとする。これは、基本的に聞き手は話し手の意図は理解できないのであるが故に、自らの意図を可能な限り言語化して聞き手に分かりやすく伝えるのが話し手の努めであると考える発想とは大きく異なる。

(2)-3. 「感得」のレトリカル・コミュニケーション[2]

レトリカル・コミュニケーションは、本来的には相手を説得するために行われるものであるとされる(岡部、1996b)。そのような目的で行われる場合に限ってみると、日本でのレトリカル・コミュニケーションは「説得」より「感得」を目指して論が展開されると指摘されている(岡部、1996b)。これも前述した「同質性」を前提とした高コンテキスト・コミュニケーションで普段の会話を行っているところからの派生であるといえる。岡部(1996b)は日本のレトリックの機能について、「公的というより私的な全会一致を模索しながら、相手を説得するというよりは相手の感情・情緒に配慮して人間関係での調和を確立したり維持したりすること」(p. 170)であると指摘し、「西洋のレトリックが論理的、議論的であるのに対して、日本のそれは適応的、直感的であるといえよう」(p. 170)と述べている。更に、「感得を目指すコミュニケーションでは、相手の感情を大事にして調和を保とうとするあまり、相対立する意見を戦わせて黒白をつけるという対決の姿勢をなるべく避けて、できるだけ円く収まるような妥協点を見出そうと努力する」(p. 171)結果、レトリカル・コミュニケーションが全会一致の追求や単なる情報の提供に留まることが多いとしている。

岡部(1996b)によれば、「説得」と「感得」の差は、相手とのやりとりでの「ダイアログ」と「モノログ」の違いとして現れる。「説得」であれば、双方意見の異なるもの同士が意見や態度の不一致を解消するために対話が行われ、意見の相違を明らかにするところからはじまる。一方「感得」の場合は一見対話が行われているようにみえても、実はそれぞれが「独話」を順番に述べているに過ぎず、意見や態度の相違がなるべく目立たないように配慮される。岡部(1996b)は、日本の話し手は「感受者」としての聞き手の感情や考え方に合わせようとする傾向が強いと指摘する。「独話型」のレトリカル・コミュニケーションも、このように考えれば納得がいく。一般的によく言われるのは、この背後には「和をもって尊しと為す」という聖徳太子の言葉があるということであるが、この発想が現代でも廃れていないことは、数年前に「KY」[3]という言葉が流行したことからも明らかであろう。

岡部(1996b)は、「言語の介在をいっさい排除した沈黙こそが自己達成と自己昇華の究極の道であるとの哲学を現在でも信奉する一つが日本文化である」(p. 172)としているが、これは言葉を用いずに文字通り「感得」することによって「悟り」に達することを目指した仏教思想を彷彿とさせる。仏の思想を一般に広めるための経文や説教はあくまで便宜的な手段でしかなく、究極的な頂点に達するには言葉を超越する必要があるのだと考えるのが仏教思想であると考えた場合、「説得」ではなく「感得」を志向するのは日本文化の一面であり、簡単に変革を促せるものではないだろう。

岡部(1996b)はまた、日本でのレトリカル・コミュニケーションのメッセージ構成を「感情論証」と表現する。これは、「感得」を目指すメッセージの中で、具体的な事実や数字、正確な引用が多用されることが少ないということに注目したものである。聞き手への感情面・情緒面への配慮を重視することが、話し手と聞き手との「共通志向性[4]」につながり、そのことが結果的に「感得」を生み出すと考えられているという考察である。また、そのようなメッセージを構築する際にも、全てを不足なく説明するようなメッセージよりは、聞き手が「点」と「点」の間や、「間ま」を埋めてくれることを想定したメッセージ、即ち聞き手側の関与を求めるようなメッセージを構築する。岡部(1996b)は「話し手が聞き手とのキャッチボールで相手の捕球動作とか投げ返す球筋を見てまた返球するという、聞き手の立場を最大限に考慮する姿勢が日本型レトリックの構成法によく出ている」(p. 180)と述べているが、場合によっては話し手が聞き手と一緒になって「点」の間や「間」を埋めていくこと自体が、「感得」の実現であると言えるのではないか。

また、メッセージの中の具体的な文言にも、聞き手の立場を最大限生かすという発想が込められている。岡部(1996b)によれば、日本のレトリカル・コミュニケーションのメッセージの中には、断定語(「~であるに違いない」)・絶対語(「必ず~である。」)・最上級語(「最も~だ」)・誇張表現(「未だかつてない~」)などが現れることは少なく、限定語(「たぶん」「どちらかというと」「かもしれない」)が多用されるという。

 

[1]メッセージ発信者からみた受信者との人間関係(親疎・上下など)はそのような「付加」の一例となろう。

[2]最も典型的なレトリカル・コミュニケーションは、「話し手がある特定の場で比較的多数の聞き手に向かって、態度変容を図る目的のために準備された連続的なメッセージを一方的に与える形態である」(岡部、1996b、p. 168)。そのため、情報発信者と受信者の間での役割交代は起きず、情報発信者が話し終えるまで受信者は聞き手であり続ける。また、意図的なメッセージの伝達が行われるため、非言語メッセージよりは言語メッセージに依存する割合が高いコミュニケーション形態であるといえる。更に、公的な場で行われることが多く、情報発信者と受信者の間の距離がある程度離れている(対面状況であれば公衆距離[3.5m以上]が取られるであろうし、対面状況でなければマスメディアを媒介したコミュニケーションになるであろう)という点も特徴的である。

[3]「空気読め」をローマ字標記して語頭の文字を並べた略語であるとされ、場の雰囲気にそぐわない言動を行う者に対する非難の言葉として使われる。

[4]聞き手からみて話し手が自分たちと同じ目標や価値観をもっていると判断される場合、その話し手は聞き手との共通指向性がある話し手であるとされる。